戦後の食糧事情、資材不足で事業進まず
操業を再開しようにも敗戦で民生は混迷の極みにあり、求人活動は進みませんでした。食糧事情解決のため工場敷地内を社員で耕し、食糧の自給を図るのが重要な日常業務でした。苦労の末一部社員の復帰と地方よりの学卒者16名の採用により、ようやく操業再開にこぎつけたのでした。
しかし肝心の鉄材など、資材が極度に不足していて入手困難、加えて燃料の石炭不足、電力制限等悪条件が重なり苦闘の日々が続きました。
光が見えてきたのは、1948(昭和23)年の工作機械中央計画生産の実施に伴い、当社も商工省(現経済産業省)機械局の指定工場として、チャックの生産指示を受けてからです。
海外貿易・朝鮮特需で飛躍への基盤固める
1949(昭和24)年3月には、海外初貿易としてインド、さらに中国からも多量の受注を受け、フィールドを広げました。また、販売ルート確立のため地域実力商社との間に販売提携の代理店契約を次々と結び、1950(昭和25)年には、現在とほぼ同様の代理店網を有していました。
1950(昭和25)年、朝鮮動乱が勃発。日本の産業界は朝鮮特需に沸きかえりました。当社もチャック生産に全力を傾注しましたがブームは長くは続かず、チャックの需要も落ち込んで、ついには人員削減まで余儀なくされました。この人員整理をきっかけに、1955(昭和30)年6月、当社にも労働組合が結成され、全国金属産業労働組合同盟(現JAM)の下部組織となりました。
特需景気で飛躍への基盤を固めた日本の産業界は、技術革新、設備近代化の波に乗り設備投資を活発化させていきました。当社も新時代のチャックの必要性が痛感され、研究を進めて強力型スクロールチャックの開発に成功。次の発展に備えることができました。